インディアンジュエリーの歴史
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古代からの知恵や知識に富んだインディアンジュエリー(ネイティブアメリカンジュエリー)は、世界中の多くの人を魅了しています。ここではインディアンジュエリーの始まりと、大衆化した理由について書いています。インディアンジュエリーにご興味のある方は是非ご覧くださいませ。
インディアンジュエリーの始まり
インディアンジュエリーの歴史は、少なくとも紀元前10,000年まで遡ります。アメリカに最初に居住した先住民は、貝殻や石・骨・羽・枝角などの素材を使用して装飾品を作成しました。最も古いインディアンジュエリーとして知られているのは、4つの骨が装飾された約12,000年前のイヤリングです(アラスカ州)。
紀元前8,000年前には、アメリカ南西部の先住民は色とりどりの石や貝殻をドリルでビーズを形成し、ペンダントを作成していました。
紀元前7,000年前に骨・枝角・貝殻で作られたビーズがアラバマ州の洞窟内から、紀元前6,000年前に貝殻で作られたビーズがネバタ州から、紀元前3000年前の銅製の宝石はスペリオル湖から、紀元前1500年前に石で作られたビーズはルイジアナ州からそれぞれ発見されました。
長い年月をかけて徐々に技術が高度になり、動物の歯や爪、ターコイズ、銅、銀、真珠などの素材も使用するようになっていきます。
ネイティブアメリカンにとってインディアンジュエリーとは
伝統を伝えていくツールとなったインディアンジュエリーは、それを使用して階級や個性を表現していたそうです。
ネイティブアメリカンの富は家畜やジュエリー、毛皮などで、現在のように金銭の概念を持っていませんでした。また、富は持ち運びが可能なものでなければなりませんでした。
そして部族間の貿易においても重要な役割を果たしました。このようにネイティブアメリカンにとってジュエリーは装飾品であるとともに経済的価値のあるものでした。
技術の進歩
1500年代に北米大陸に上陸したヨーロッパ人からビーズを紹介され、デザインに取り入れていくようになりました。ビーズは食物繊維や動物の腱などを使用し繋がれました。
1600年代、アメリカ南西部はスペインによる侵略、支配が始まります。そして、その災いの中で金属製の道具を与えられ使用するようになります。
1850年代、ナバホ族のAtsidi Sani(アテディサニ。オールドスミスを意味する)はメキシコ人から銀細工の技術を学び、最初に銀をジュエリーデザインに取り入れました。
1864年にアメリカ政府はナバホ族が居住する土地を武力支配し、ナバホ族は強制移住を強いられ(ロングウォーク)、アメリカ政府によって4年間監禁されてしまいました。その収容先で、銀細工の知識を仲間に広めてジュエリーを作成していくようになったと言われています。1868年にアメリカ政府から解放された後も、西部開拓に従い白人やメキシコ人との接触が増えていくなかで、銀細工技術を高めていきます。
ナバホ族の銀細工技術を称賛したズニ族は、家畜と交換にその技術を獲得します。そして1890年までにはズニ族はホピ族へとその技術を継承しています。このように部族間でその技術が伝っていき、様々な部族で採用されていきました。
初期の銀細工は、ヨーロッパ系アメリカ人の商人から入手した硬化・食器・インゴットを溶かして無地の銀に刻印しデザイン性をもたせた素朴なデザインでしたが、後にメキシコの皮革職人が使用していたパンチとスタンプを取り入れたり、鉄道の拍車や鉄くずなども使用してデザイン性を高めていきました。
ターコイズが使用されたジュエリーは1880年くらいから、コーラルは1900年頃から一般的に使用されるようになったといわれています。
インディアンジュエリーはどうやって大衆化していったのか
1870年代頃より、ネイティブアメリカンは作成したジュエリーやウール製品、家畜などを白人が経営しているトレーディングポスト(人々が品物を取引する場)に持ち込み、食料や日用品を得て生活するようになりました。ここでも他人種の人々との交流から金属を溶かして型に流すキャスティングや、装飾するための道具の作成をするようになり、現代のインディアンジュエリーの基礎が出来上がりました。
また、ネイティブアメリカンの居住区内にはあまり仕事がなく、現金収入が必要な場合には手持ちのジュエリーやクラフト品を質屋(Pawn)に出すネイティブアメリカンも多かったそうです。当時はインディアンジュエリーは産業化していなかったため、所有者とその家族のために作成されたジュエリーや、仲間や部族間での交易のために作られたものでした。
取り引きは、所有者は買い取られた金額+10%の金額でそのアイテムを回収できることが条件でした。少なくとも6ヶ月経過しても所有者が回収しない場合は、トレーダーはその商品を販売することができました。70〜85%のジュエリーは所有者が回収することができていたそうですが、何らかの理由で15〜30%は回収されず、それらがオールドポーンジュエリーと呼ばれ、トレーダーの手から流通したことで大衆化したひとつの理由となりました。
そして大衆化した最大の理由は、1900年代のゴールドラッシュにより汽車による交通網の活性化、それにより多くの白人が汽車を利用するようになり、アメリカ南西部の観光業が急成長を遂げたことによります。
ネイティブアメリカンはシルバーとターコイズで作られたジュエリーを観光客向けに販売し始めました。もともとは重厚なものが多いインディアンジュエリーですが、軽量化して観光客が好むものに近付けていき、それが観光客の異文化への興味を引いて人気を博しました。ツーリストジュエリーの誕生です。その代表的なものがフレッドハービージュエリー、フレッドハービースタイルジュエリーと呼ばれます。
旅の道中で訪れた世界遺産タオス・プエブロ。1000年の歴史を持つ日干しレンガでできたアドビ建築の建物は、今も住居として使用されています。
フレッドハービースタイルとは
フレッドハービー(1835〜1901)は、アメリカの実業家でフレッドハービーカンパニーの創設者です。イギリスのロンドンで生まれ、15歳の時にアメリカのニューヨークに移住し数年後には米国市民になりました。
ニューヨークではレストランで働き、そこで様々な経験を積みました。その後、各地を転々とし、宝石店や鉄道会社に勤めました。
その後ビジネスを始めることとなり、カフェや鉄道沿いでレストランを経営しますが、南北戦争が起こったことやビジネスパートナーとの決裂でそれぞれ廃業しています。
紆余曲折を経て、サンタフェ鉄道の社長と出会いがありました。1878年、ハービーはサンタフェ鉄道と鉄道のルート沿いで小さなレストランを運営する契約を結び、その数年後にはサンタフェ鉄道で食堂車の運行を開始します。
当時、食堂車は食事もサービスも粗悪でした。そのため、ハービーが考案した制服を着て質の良いサービスを提供するスタイルは斬新で瞬く間に人気となりました。
そこで徹底的に訓練され質の高いサービスを提供していた女性達、【ハービーガールズ】は映画にもなっており、当時の人気ぶりが伺えます。ハービーはピーク時には84戸のレストランを保有していましたが、1901年に死去。フレッドハービーカンパニーは息子達に任されました。
1900年代に入ると、彼の持つ施設は観光業の活性化にむけてインディアンジュエリーやネイティブアメリカンの工芸品を販売する市場ともなりました。
フレッドハービーカンパニーは観光客の心を掴むために、ジュエリーの軽量化、デザイン性を重視するようシルバースミスに要望しました。こうして出来上がったそれらは人気となり多くの観光客が買い求めました。また、この頃よりインディアンジュエリーとひと目で分かるようにサンダーバードやアローなどのモチーフが頻繁に使われるようになったそうです。
このように、フレッドハービーカンパニーはそれまで部族内の装飾品だったインディアンジュエリーを大衆化させた第一人者となりました。
旅の道中で訪れたサンタフェ。最後尾に連結される車掌専用車両【caboose】。
ベルトレーディングポストとは
1932年、ジャックミッシェルソンと彼の妻はベルトレーディングポストを設立。彼の妻のジャックミドルトンの旧姓から【BELL】と名付けられました。ジャックはニューメキシコ州アルバカーキを通過する旅行者向けのインディアンジュエリー(ツーリストジュエリー)を制作し、フレッドハービーのお店など、様々な観光商館で販売しました。ナバホジュエリーが大半を占めていますが、ズニ族などの他部族のネイティブアメリカンも在籍して制作を行っていたそうです。
オールハンドメイドで数多くのアイテムを生産しておりましたが、途中マシンもプラスしていた時期もあったそうです。
残念ながら1972年に買収され現存していませんが、現在でも知名度が高く、ベルトレーディングポストのジュエリーコレクターも沢山おり、アメリカ国内でも大変人気があります。
旅の道中で訪れたアルバカーキにある1927年に建てられたキモシアター。アールデコとプエブロ様式を合わせたデザインが特徴的です。
OLDインディアンジュエリーの魅力
このようにネイティブアメリカンは様々な異国文化を歴史と災いの中から学び、独自の世界観や思想と掛け合わせて、遥か昔から現在に至るまで唯一無二のインディアンジュエリーを作成し続けています。
今回アメリカで数十点買い付け、大切に日本に持ち買ってきました。お守りのような存在で、自分を鼓舞するツールにもなるインディアンジュエリー。是非ご覧になってくださいませ。